長崎の「不発原爆」はラジオゾンデだったのか!?秘密電報の真相を検証

  • URLをコピーしました!
目次

長崎から東京へ持ち帰った不発の原子爆弾!?

1945年8月、日本陸軍が「不発の原子爆弾」をソ連に渡そうとしていた・・・

そんな衝撃的な極秘電報が、戦後にロシアの公文書館から発見されているのをご存じでしょうか。
しかし、その“原爆”の正体は、実は米軍の気象観測機器「ラジオゾンデ」だったという説が存在します。


当時、なぜそれが原爆と誤認されたのでしょうか? そしてなぜソ連に渡そうとしたのでしょうか?

この資料はXで度々陰謀論的主張として登場します

今回は当事者の証言と史料から、この知られざる戦後秘話を読み解いていきたいと思います。

「不発原爆=ラジオゾンデ」説の初出と出典

長崎の原爆「不発弾」が実はラジオゾンデだったという説は、旧日本軍参謀であった朝枝繁春氏の証言に端を発します。戦後、ソ連崩壊後のペレストロイカを経てロシア公文書館から問題の秘密電報が公開されると、共同通信など日本のメディアが真相を探るため朝枝氏にインタビューを行いました。

その際、朝枝氏は「それ(不発原爆とされた物)は原子爆弾ではなく、ラジオゾンデ(気象観測機器)だ」とはっきり答えたと伝えられています。これは、おそらくこの「不発原爆=ラジオゾンデ」説が公に示された最初の例とみられます。

この秘密電報は、関東軍作戦参謀だった瀬島龍三少佐(のち伊藤忠会長)が終戦直後の1945年8月27日付で大本営参謀次長宛に発信した極秘指令文書です。シベリア抑留者団体代表の斎藤六郎氏がロシア側公文書館で発掘し、山形県のシベリア資料館に収蔵された大量の旧日本軍文書の中から発見されました。電文の内容は次のようなものです。

「原子爆弾保管ノ件 長崎ヨリ東京ニ持帰リタル不発原子爆弾ヲ速ヤカニ『ソ』連大使館内ニ搬入保管シオカレタシ」

つまり、「長崎から東京へ持ち帰った不発の原子爆弾を、速やかにソ連大使館内に搬入・保管せよ」という指示です。

この件は国会でも取り上げられている

この電報が示された国会質疑(2007年12月7日、衆院外務委員会)でも話題となり、提出者の松原仁議員は出席者にコピーを配布しています。この席で朝枝氏の証言(ラジオゾンデだとの発言)について松原氏は「(ラジオゾンデは)わずか200gや300gのものであり、不発原子爆弾と間違えるだろうか」と疑問を呈しました。朝枝氏の「ラジオゾンデ説」はこの時点で公的にも取り上げられ、議事録にも残っています。

なお、この電報そのものは「瀬島文書」とも呼ばれ、当時関東軍停戦交渉団の一員だった瀬島龍三参謀の発信とされています。ただし実際にこの案を発案・起草したのは朝枝繁春参謀であったことが、後年の証言で明らかになっています。朝枝氏自身の回想によれば、8月18日に東京を発つ直前、羽田空港で長さ約1.5m・直径約30cmほどのジュラルミン製円筒を目にし、それが「長崎の原爆の不発弾」だと聞かされたといいます。そして満洲(新京)へ向かう飛行機の中で、「この不発弾をソ連に渡したらどうなるか」と考え、電報用紙に草案を書き、権限のある瀬島参謀に託して打電してもらったというのが、朝枝氏自身の証言です。この証言と符合する形で、上述の秘密電報が存在しているわけです。

以上が、「不発原爆=ラジオゾンデ」説の初出とその出典に関する経緯です。端的にまとめると、1980年代末〜90年代初頭にソ連側資料から電報が発見された際に朝枝氏が「実はあれはラジオゾンデだった」と説明し、その後2007年の国会質疑などで公に検証されたという流れになります。

ラジオゾンデとは?当時どのように使われていたか

ラジオゾンデ(radiosonde)とは、本来は気球に吊して大気中に放ち、気温・気圧・湿度など気象データを無線送信する装置です。

しかし第二次世界大戦末期には、原子爆弾の効果測定のためにも転用されました。米軍は原爆投下と同時に観測機から複数の計測機器をパラシュートで落とし、爆発の威力や爆圧、熱線などを測定・データ送信させています。実際、1945年8月9日の長崎原爆投下の際には3個のラジオゾンデが投下されました。米軍はこれらを上空に漂わせたまま、爆発圧力曲線などのデータをグアム基地で受信しています。

長崎市の公式記録によれば、「アメリカ軍は長崎に爆圧その他の測定のため3個の『ラジオゾンデ』をパラシュートで投下した」とされています。これら観測装置には無線発信機が内蔵され、原爆の爆風や熱線の強度を自動で地上局へ送信する仕組みでした。また、長崎で投下されたラジオゾンデには、東京帝国大学の嵯峨根遼吉教授宛ての英文書簡(いわゆる「原爆投下に関する警告の手紙」)が同封されており、日本に速やかな終戦決断を促す心理戦の目的もありました。実際にこの手紙は日本側軍当局によって回収され、戦後になって宛先の嵯峨根教授のもとに届けられています(1949年に米物理学者L.アルヴァレズが来日し署名したことで知られる)。

上述しましたがラジオゾンデ自体の形状・サイズは当時かなり大型でした。現代の気象用ラジオゾンデは軽量化され100g以下のものもありますが、1945年当時の原爆観測用ラジオゾンデは黒い円筒形で直径約30cm、長さ約1.5mにもおよぶものでした。素材はジュラルミンやベークライト等で構成され、中には測定器と送信機が収められています。

当時の写真によれば落下傘とワイヤーで繋がれた筒状の装置で、かなり存在感のある大きさでした。長崎原爆資料館には実物のラジオゾンデが展示されており、その外観は朝枝氏が羽田空港で見たという「長さ1.5m、直径30cmの円筒」とほぼ合致しています。

広島でもラジオゾンデが投下されている

なお、広島に投下された原爆(8月6日)においても、観測機器がパラシュートで投下されています。広島市北方の亀山村の山林には投下されたラジオゾンデの一つが落下し、村人が発見しました。当初はこれも「新型爆弾の不発弾ではないか」と村中が大騒ぎしましたが、駆け付けた日本陸軍の有末調査団に所属する新妻清一技術中佐ら専門家が調査し、それが爆弾ではなくラジオゾンデ(米軍の観測装置)であることをすぐに突き止めています。つまり、日本側も専門知識を持つ者はこの装置の存在を把握し、戦時中から正体を見抜いていたのです。

以上のように、ラジオゾンデとは気象観測用の無線測定器であり、原爆投下時には爆撃機から投下されて核爆発の物理データを収集する目的で使われたということになります。アメリカ軍はこの手法で広島・長崎それぞれの爆発データを取得しており、長崎では3基すべてが日本側に回収されました。

日本軍がそれを原子爆弾と誤認した可能性はあるか

結論から言えば、日本軍および当時の日本人がラジオゾンデを「不発の原子爆弾」と誤認した可能性は十分にあります。実際にそのような誤認が起こったことを示す記録や証言が複数残されています。

まず、長崎への原爆投下当日の状況です。投下直後に上空から3つのパラシュート付き物体が降下してきたため、地上の日本側はこれを確認しました。しかし正体がわからず、当初は「爆弾がパラシュートで落ちてきた」と受け止められました。長崎県当局や憲兵隊は公式報告で、「パラシュート付爆弾らしきものが複数確認された」とか、「新型爆弾らしき未爆発弾3個」なるものの存在に言及しています。具体的に、長崎憲兵隊の報告には「3発の未爆炸弾(新型爆弾ト推定)」とあり、長崎県の報告でもパラシュート付きの爆弾と認識されていました。のちにこれらはいずれも誤認だったことが判明しますが、投下直後の時点では日本側はラジオゾンデを爆弾の類とみなしていたことがわかります。

また、一般住民レベルでも誤認が生じています。長崎市東方の農村地帯では、落下してきたラジオゾンデが柿の木に絡まり、水田に落下しました。谷あいの集落の人々は突然の落下物に驚き、「新型爆弾の不発弾だ!」と思い込んで半鐘を乱打し大騒ぎとなったのです。隣接する田結(たゆい)村や江ノ浦村でも同様に「不発弾騒ぎ」が起き、防空監視所や村役場に通報が相次ぎました。現地に残る説明板にも、「谷間の上にあった民家9軒は、この不意の飛来物を新型爆弾の不発弾と思い、村では半鐘を打ち鳴らし大騒ぎになった」と記録されています。

こうした通報を受けて、日本軍(海軍・憲兵隊)が現地に出動し、問題の落下物を回収しています。長崎では海軍部隊が黒い円筒状の落下物(ラジオゾンデ)とパラシュートをトラックで運搬し、地元村役場に持ち込んだとの記録があります。その際に計測装置が付属していることは分かったものの、正体不明のまま取り扱われました。

当初は時限式の強力爆弾ではないかとの噂も立ち、特に田結村では「ものすごい破壊力を持つ時限爆弾かもしれない」と住民が恐れ、一晩中遠巻きに監視して誰も近寄らなかったという報告さえあります。

しかし、その後の調査でこれらの落下物はいずれも爆弾ではなく観測装置に過ぎないことが判明します。広島で新妻中佐が即座に正体を見抜いたように、長崎でも翌8月10日までには陸軍の専門技術者らが回収した機材を分析し、ラジオゾンデであると突き止めました。事実、長崎で回収されたラジオゾンデは西部軍司令部を経て九州大学工学部に送致され、さらに一部は海軍の佐世保経由で大村海軍工廠に送られています。そこには東京から派遣された科学者(嵯峨根教授ら)や技術将校たちも訪れ、装置の検分が行われました。こうした専門家の分析により、それが米軍による原爆観測用機器であると認識されたのです。

広島に1発、長崎に2発!?

では、なぜ一時的にせよ「不発の原爆」と誤解されてしまったのでしょうか。当時の状況と人々の知識不足を考えれば、その背景は理解できます。まず、原子爆弾という兵器自体が前例のない新兵器であり、日本側には詳細な技術情報がなかったことがあります。広島と長崎でそれぞれ1発ずつ投下されたことは把握されましたが、米軍が他にどれだけの原爆を保有しているかは不明でした。実際、日本の高級将校の間では「米国は日本に原爆を3発投下し、在庫を使い果たした」という誤った情報が語られていた例もあります。終戦交渉の場で日本側代表(朝枝氏と推定される人物)はソ連側通訳のチタレンコに対し、「米国は広島に1発、長崎に2発(うち1発が不発)投下したのだ」と主張しています。このように、日本側では長崎に2発目の原爆が投下された可能性も取り沙汰されており、実際には存在しなかった「長崎の不発原爆」を信じていた者がいたわけです。

素人目には「不発弾」に見えてもおかしくない

さらに、ラジオゾンデの形状と大きさも誤認を助長しました。前述のように当時のラジオゾンデは全長1.5mにもなる金属筒で、一見すると砲弾や爆弾の胴体のようにも見えます。重量こそ数kg程度と推定されますが、遠目には重量感まではわかりません。朝枝繁春氏が羽田で目撃した物体も、「直径約30cmの円筒」だったため、新型爆弾の本体と説明されれば信じてしまっても無理はないサイズでした。松原仁議員は「わずか200〜300gの機器を原爆と間違えるだろうか」と疑問を呈しましたが、実際には当時のラジオゾンデは箱や筒、計測器を含めると相当大型であり、現代の小型気象ゾンデとは異なります。長崎で展示されている現物も朝枝証言通りの大きさであり、十分に素人目には「爆弾の一部」に見え得る代物です。

以上を踏まえると、日本軍がラジオゾンデを原爆の不発弾と一時的に誤認した可能性は高く、実際にそのような誤報・騒ぎが発生していたことが確認できます。重要なのは、その誤認が比較的短期間で専門家によって修正されていることです。朝枝参謀ら一部の将校は誤認情報をもとに行動しましたが、日本側の技術陣は速やかに実態を解明し、大本営にも「原爆の不発弾ではなく観測装置(ラジオゾンデ)である」との報告が上がったと推測されます。おそらく朝枝氏自身も、後になってその真相を知らされたからこそ、戦後になって即座に「あれはラジオゾンデだ」と説明できたのでしょう。

ソ連大使館への保管に関する裏付け文書や証言

問題の電報には「不発原爆をソ連大使館に搬入・保管せよ」と明記されていましたが、実際にそれが実行されたかどうかを示す直接の記録は見つかっていません。しかし、この計画に関与した当事者および傍観者の証言から、当時そのような動きがあったこと自体は裏付けられます。

まず電報そのものが一次資料です。前述の通り、昭和20年8月27日付の関東軍発信機密電報で、長崎から持ち帰った不発原爆を東京のソ連大使館に搬入せよという内容が示されています。発信者は電文の主任欄から瀬島龍三参謀と推定されますが、実際の起案者は朝枝繁春参謀でした。送り先である大本営側(参謀次長 河辺虎四郎宛)にこの電報が届いたことは確かで、終戦直後の混乱期に日本側が何らかの形で「原爆の本体」をソ連に引き渡そうと試みたことを示唆しています。

ソ連側の証言

これに対応するソ連側の証言として、極めて興味深いものにフェードル・チタレンコ氏(旧ソ連軍通訳)の手記があります。彼は終戦直後、満洲のジャリコウォで行われた日ソ停戦交渉に通訳として加わった人物です。チタレンコの回想では、ある日日本側大本営代表(彼は名を失念し文中で「彼」と記していますが、状況から朝枝氏と考えられる人物)がソ連軍司令部を訪れ、応接室で雑談となった際に原爆の話題が出ました。チタレンコが「日本の最高幹部は米軍の新兵器(原爆)をどう評価しているのか?」と尋ねると、その日本人将校は「原爆は非常に強力だが、降伏の主因ではなく、主な要因は関東軍の急速な敗北だった」と語りました。そして続けて、「米国は日本に原爆を3発投下し、ストックを使い果たした」と主張したのです。チタレンコが「日本に落とされた原爆は広島と長崎の2発ではないのか?」と正すと、その将校は「いいや、3発だ。広島に1つ、長崎に2つ投下され、そのうち1つは爆発しなかった」と断言しました。

この信じがたい話に興味を惹かれたチタレンコが「その不発弾はどうしたのか?」と問い返すと、日本人将校(朝枝氏と思われる)はこう答えました。

「我々の現状ではそれ(不発弾)をどうすることもできない。不発弾はあるが、米軍が来て持ち去るだろう。それですべて終わりだ」
我々は喜んでそれをあなた方(ソ連)に渡すのだが…」

この発言を聞いたチタレンコは驚愕し、大笑いしてしまったと記しています。「なぜ日本は急に我々(ソ連)に原爆を渡そうとするのか?しかも喜んで」と彼が問いただすと、その日本人将校は真剣な表情で次のように述べました。

「我々の国(土地)を占領するのは米軍だろう。もし米軍が原爆を独占したら、我々(日本)はおしまいだ。我々をひざまずかせ、隷属させ、植民地にして、日本は二度と復興できなくなる。もし原爆がソ連にもあれば、我々は近い将来、大国間で然るべき地位を占めることができる」。

この論理に対し、チタレンコは「非常に説得力があるように思えた」と記しています。つまり、日本側の一将校は「米国による原爆独占を防ぐため、ソ連にも原爆を渡して核保有させ、勢力均衡を図ろう」という意図を語ったわけです。このやり取りは、前述の秘密電報と内容的に符合し、まさに日本側が「不発原爆」(実際には計測器でしたが)をソ連に提供しようとしていたことをソ連側通訳が証言しているものといえます。

「不発原爆」がソ連大使館に搬入された証拠はない

しかし、肝心の「不発原爆」が本当にソ連大使館に搬入・保管されたかについては、確実な裏付けがありません。公文書上、ソ連側が日本から原爆本体を受け取った記録は見当たらず、米国側も長崎で原爆が不発になったとは公式に報告していません。アメリカ軍は広島・長崎で各1発ずつ原爆を投下したと記録しており、「長崎に2発投下し1発が不発だった」という日本側の主張(誤情報)は、あくまで当時の一部日本人の認識に過ぎません。

仮に日本が不発弾(と信じたもの)を密かにソ連に引き渡そうとしていたとしても、終戦直後の時点でソ連の在日大使館がどこまで機能していたかも考慮が必要です。ソ連は8月8日に対日宣戦し外交関係は途絶しましたが、8月15日の降伏後は連合国の一員として9月以降極東委員会などに関与します。8月27日時点で東京のソ連大使館施設に受け入れ態勢があったのかは定かではありません(大使館員は一時退去していた可能性もあります)が、少なくとも日本側参謀は「ソ連大使館に搬入せよ」と命じており、場所としてのソ連大使館を引き渡し先に想定していたのは間違いありません。

結局、「不発原爆」が実際にソ連側の手に渡ったという確証はなく、日本国内で回収された観測器材は米軍進駐後に連合軍に接収されたと考えるのが妥当です。事実、米軍は占領開始後ただちに原爆の残骸や関連物資を押収・調査しており、仮に本物の原爆が存在すれば見逃すはずもありません。チタレンコ通訳の手記でも、日本人将校は「米軍が来て持ち去るだろう」と語り、ソ連に渡す計画は「願望」として語られただけでした。朝枝繁春氏の電報も、「こうしたい」という打診・指示にとどまり、実行の記録が残っていないことから、実際の引き渡しは行われなかった可能性が高いと考えられます。

当時の技術的文脈・軍事的誤認の背景

1945年当時の技術的・軍事的文脈を踏まえると、今回の「不発原爆=ラジオゾンデ」誤認事件は、戦争末期の情報錯綜と新兵器に対する知識不足、そして冷戦の萌芽的状況が複雑に絡み合った産物と言えます。

まず技術的側面では、前述のように日本側は原子爆弾という未知の兵器に直面していました。広島・長崎で受けた壊滅的被害からそれが桁外れの新型爆弾であることは理解していたものの、爆発のメカニズムや兵器そのものの形状・構造については正確に把握していませんでした。日本軍の中にも理化学研究所の仁科芳雄博士ら物理学者グループがいて「ウラン爆弾ではないか」という推測をしていましたが、一般の将兵には細部は伝わっていなかったのです。

一方、米軍は原爆の効果測定のため周到に準備をしており、ラジオゾンデのような観測機器を投下してデータ収集や心理戦を行っていました。これは当時としては極めて高度な科学戦でしたが、日本側から見れば「爆発しなかった爆弾が落ちている?」という単純な誤解を招く結果となりました。実際、日本軍内部でも情報伝達の混乱が見られます。長崎への原爆投下から10日以上経った8月27日になっても、関東軍参謀(朝枝氏)が「長崎の不発原爆」を信じて電報を打っていることがその証拠です。おそらく彼は現物をチラッと見聞きしただけで詳細な報告を受けておらず、誤情報を持ったまま停戦交渉任務に赴いたのでしょう。

軍事的・政治的背景として重要なのは、日本の終戦と直後に始まる大国間の駆け引きです。日本はポツダム宣言を受諾しましたが、占領は主に米軍が担うことになりました。ソ連は満洲や北方領土で進軍を続け、朝鮮半島北部にも進出しましたが、日本本土には進駐していません(ただ東京にソ連大使館が戦前からあり、戦後は連合国協議の場でソ連代表も来日します)。こうした中、日本の一部軍人は「今後アメリカだけに全てを掌握されれば日本は二等国に転落する」と危惧していました。朝枝繁春氏(当時中佐、30代前半の若手参謀)はまさにそのような問題意識を持ち、ソ連にも原爆の技術を渡すことで米の独占を崩し、日本の復興に有利なパワーバランスを作れないかと発想したと考えられます。

ソ連の核技術はスパイ活動によるもの

この発想は、後から見れば極めて大胆であり、ある意味で先見の明とも言えます。実際、終戦からわずか4年後の1949年にはソ連が初の原爆実験に成功し、米国の核独占は終わりました。ソ連の驚異的な開発スピードについては当時大きな謎とされ、米国内ではマンハッタン計画からの情報漏洩(スパイ)を疑う声が上がりました。米国人技術者のローゼンバーグ夫妻が逮捕・処刑され、さらには2000年代になってソ連の核スパイだったジョルジュ・コワリの存在も公表されています。つまり歴史的事実として、ソ連の核開発成功は主に米国からのスパイ活動による情報入手に起因するもので、日本から物理的に原爆を入手したからではありません。

やはり「不発原爆」は日本からソ連には渡っていない

このことからも、長崎の「不発原爆」をソ連に渡したというシナリオは信憑性が低いことがわかります。仮に本物の原爆本体を手に入れていれば、ソ連はもっと早く核開発を達成できた可能性もありますし、米国も何らかの察知をしていたでしょう。しかし実際には、ソ連は米国の設計図や人脈をスパイ経由で得て開発を進めたのです。前項で述べた通り、日本国内でも**「不発原爆」なるものの実在を裏付ける公的資料は皆無です。朝枝氏らの電報は存在しますが、それは誤認情報に基づく一方的な試みでした。その電報を受け取った大本営側がどう対応したかも定かでありませんが、おそらく先述のように「それは原爆ではなく観測器材である」との確認がなされ、計画は立ち消えになったのでしょう。

戦争末期という極限状態では、各人各様の思惑が錯綜しました。朝枝氏のように「ソ連に恩を売って日本の将来に布石を打つ」ことを考えた者もいれば、瀬島龍三氏のように天皇の玉音放送後も独自行動を模索した将校もいました。また、日本政府首脳は一刻も早く混乱を収拾し占領軍(米軍)を迎え入れる準備に追われていましたから、仮に朝枝・瀬島ラインから「原爆の不発弾をソ連に渡します」と打診があっても、政府中枢がそれを容認したとは考えにくい面もあります。

結論:この「ラジオゾンデ説」の信頼性

総合的に判断すると、長崎の「不発原爆」とされた物体の正体がラジオゾンデ(気象観測無線測定器)であった可能性は極めて高く、現時点で入手できる史料から見てこの説は非常に信頼性が高いと言えます。以下、その理由を改めて整理します。

  • 一次史料と証言の整合性:公開された日本側電報、それに対する当事者の戦後証言、さらにソ連側関係者の回想の内容は互いに矛盾せず、「日本側が不発弾と思い込んだ何かをソ連に提供しようとした」事実を示唆しています。そして朝枝繁春氏自身が「それは原爆ではなくラジオゾンデだ」と証言したことは決定的です。この発言は単なる憶測ではなく、当事者による種明かしと捉えるべきでしょう。
  • ラジオゾンデに関する豊富な記録:長崎に投下されたラジオゾンデについては、長崎平和推進協会の公式記録や現地の説明板の文面、広島での類似事例など、一次・二次資料が数多く存在します。それらには住民や軍が誤って「不発弾」と思い込んだ様子まで克明に記録されており、この装置が誤認の原因であったことは疑いようがありません。逆に、本物の原爆が不発だったという主張を裏付ける資料は、日米双方いずれからも見つかっていません。
  • 技術的常識からの検証:米軍の原爆投下作戦を検討すれば、長崎に2発目を投下する余裕はなかったことが分かります。実際、長崎への投下任務機(B-29「ボックスカー」)には1発のプルトニウム爆弾(ファットマン)しか搭載されておらず、投下後にもし目標が曇っていれば沖縄まで運んで投棄する計画でした。**「長崎にもう1発投下し不発だった」**という想定自体が米軍の作戦上あり得ないのです。またファットマン型原爆の実寸は長さ3.25m、直径1.5m、重量約4.5トンと巨大で、日本側が回収した30cm×1.5m程度の軽量機器とは全く符合しません。この点からも、日本側の「不発原爆」認識が誤りであったことは明白です。
  • 歴史研究者・資料館の見解:長崎原爆資料館では該当のラジオゾンデ実物を展示し、当時それが不発弾と誤認された旨の解説を行っています(展示解説板に「村では新型爆弾の不発弾と思い大騒ぎになった」等の記述あり)。また歴史家やジャーナリストの調査でも、「ソ連入手説」は裏付けがなく、むしろ朝枝氏が咄嗟にラジオゾンデだと弁明したのは自身が関与した極秘工作を隠すためではないかという指摘(松原議員の推測)もあります。しかしその推測を差し引いても、現物の性質・当時の状況証拠がラジオゾンデ説を強く支持しています。

以上の理由から、「長崎の不発原爆」は実際には米軍の原爆観測用ラジオゾンデであり、日本軍の一部がそれを原爆本体と勘違いしたという説は、非常に蓋然性の高い説明だと言えます。むろん歴史に絶対はありませんが、少なくとも現段階で入手可能な信頼性の高い資料を総合すれば、この結論に大きく矛盾する事実は見当たりません。

最後に付言すると、この逸話は日本の敗戦と冷戦初期の思惑が交錯した一コマとして興味深いものです。当時の日本人将校が抱いた「原爆を巡る大国間のパワーバランス」への危機感は、後の東西冷戦で現実のものとなりました。結果的に日本からソ連への原爆技術供与は実現しませんでしたが、歴史のもしもを感じさせるエピソードとして記憶されています。そしてその裏側には、一見「不発原爆」と信じられた小さな観測装置=ラジオゾンデが存在していたのです。

最後に

最近、林千勝氏の動画『インサイダーヒストリー』を視聴する中で、広島・長崎に投下された原子爆弾について、いくつかの疑問を抱くようになりました。過去に、水原紫織氏の『特攻兵器 原爆』という「地上起爆説」を扱った書籍にも目を通したことがありますが、改めて調べてみると、公に知られている事実の中に意図的な偽装があったのではないかと感じる点が少なくありません(詳細はここでは割愛します)。実際のところ、当時使用された原爆は、技術的に未完成で不完全なものだったのではないか。そんな可能性が思いのほか多く見えてきた気がします。

参考資料

以上を総合し、本文を書きました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次